2024年8月2日金曜日

レンツとアウティング誌 - 20

  レンツとアウティング誌 - 20

「OUTING」 スポーツ、旅行、レクリエーションのイラスト入り月刊誌

第 22 巻 1893年4月 - 9月 合本版

「OUTING」 AN ILLUSTRATED MONTHLY MAGAZINE OF SPORT, TRAVEL AND RECREATION .

VOL. XXII APRIL - SEPTEMBER 1893

243頁、

物や様々な商品は、背負子に載せ、山間を横切って運ばれる。日本人は非常に勤勉である。

丘陵の斜面、或いはどこでも利用可能な土地はすべて耕され、または段々にされ、その周りに畝が築かれ、そこに水が引かれ、それによって大量の稲が栽培される。しかし、農具は非常に粗末である。稲を刈った後、その束を千歯扱きで引いて梳き取る。それから、それを莚の上に置いて乾燥させ、その後、叩いたり突いたりして脱穀する。籾殻は唐箕を通過するときに、羽根車で吹き飛ばされる。

翌朝、三島からの東海道は、平坦で砂利舗装された素晴らしい状態であった。沼津と原を通り、再び海岸に向かって南に進んだ。川にかかる橋はまだ完成していなかったので、私は1セントの料金で舟に乗って川を渡った。

ここから道は帝国鉄道に沿って海岸を進み、高い山々が右側に現れた。荷馬車、人力車、そして旅する無数の日本人が道路の表面を踏み固めて行く。すぐ後ろには富士山が一望でき、その景色は日本で最も美しい。

私は素早く由比、興津、江尻を通り抜け、人口3万6千人の駿河国の首都、静岡に向かった。県庁は城壁で囲まれ、東京の皇居と同じように堀に囲まれている。途中の食堂で私が手に入れた昼食は、ご飯と卵とお茶で、1食7セントから10セントだった。私は通常、1日に3、4回食事をした。魚や肉はまずいソースで調理されていて、どんなにお腹が空いていても、私はうまいと思わなかった。

静岡から鞠子まで走った。そこでは鉄道が海岸に沿って走り、東海道は山を抜けて岡部まで3マイルのところまで曲がりくねっている。そこでは、アメリカの古い「スイッチバック鉄道」のように、ジグザグに山の斜面を登っていく。山頂近くではトンネルが掘られており、これは私が旅で初めて見た丘のトンネルであった。反対側ではジグザグに下っているため、1マイルほどは惰性で走ることはできず、その後も道はずっと曲がりくねっていた。


243頁

本文の挿絵 
「道中はずっと木陰になっている。」(p. 246)

写真
東海道で好奇心の強い日本人に囲まれる
挿絵と比べ若干の相違がある