輪界 - 11
「輪界」第11号 輪界雑誌社 明治42年7月25日発行
37頁に、「東洋商會主松下常吉氏の略歴」の記事あり
表紙
国会図書館所蔵資料
以下同じ
名古屋競争会 優勝者 佐藤彦吉 中央
目次
交通の発達
37頁
東洋商會主松下常吉氏の略歴
38頁
東洋商會主松下常吉氏の略歴
氏は安政二年五月石川縣能登の七尾町に生れ幼にして機械の研究を好み稍々長して時計商をなせしも終に失廃に歸し明治十六年中上京し石川島造船所の職工となり(エンジシ)機械に就ては全所技師米國人キングー氏に拠りて種々の教育を受け一意專心研究を重ね大に得る所ありたりキングー氏常に氏に語って曰く如何に學理進歩したりとて兵力強大なりとて國を富さざれば動力を与へざる機械の如し而して富國の源は宜しく商工業にあり故に商工業者は常に國家と云ふ事を念頭に置かざるべからずと氏も亦毎に此事を自覺したりしが奈何にせん身は僅か一の職工に過ぎされば疲せたる馬車馬常に馭者に鞭達せらるる如く或は砲兵工廠に入りて職工となり田中工場に移り芝浦製作所に勤め何日光明を得るとも知れざりけり然るに明治二十二年の頃田中工場事務員庄司某なる者米國製自轉車を愛乗するを見るに輕便にして迅速なりされば氏常にこれを見て自轉車は實に交通機關として、便利なるものなり國家の發達は國を富ますにあり國富の原因は商工業にあり而して商工業は交通によりて活動することを得於是乎吾人は交通の機關となるものを製作するは社會に於ける機械に動力を興ふるの類なりと考へたるも元來有資の士にあ らず否寧ろ無學無能加ふるに今日の生計これ急な故に只だ其余暇を利用して僅かに自轉車製作に開する研究をなして其日を送るに過ぎざりしが一寒職工の事とて恰も水中の槌の如く何日其頭を上ぐる哉覺束なきの極みなりしが氏思ふ嗚呼牛の步みはよし遅とも撓まず行けば千里の道も經んと大に覺悟と決心を以て明治三十年の春芝浦製作所を辭し芝區三田四國町二番地十六號の最も狭隘なる貸自轉車及修繕の店を開きたら夫れより長男幸作氏と共に熱心に自轉車製造の研究を始め英米獨の自轉車に付き大に考慮を加へ其長を取りて其短を廢て明治三十一年三月始めて東洋號とする自轉車を製作し以て大にこれが販賣に勉めしに幸にして堅牢快速なるも未だ充分ならざるところありしが氏父子は大に其短所を研究し今や間然するところなきに至れり然るに之れ等は其品質に於て輸入品に劣らざるものあり加ふるに価格の廉なれば 愛輪家の愛乗を得るに至れり去れば將來益々完全 なるものを製し大に輸入を防遇するに至るは勿論進んでこれが輸出の道を講じ尙は廉價を以て大に販賣するに至らば實に國家の利益と思惟す幸作氏の名を以て專賣の特許を得第三回內國勸業博覽 會、一府九縣品評會、發明品博覽會等に於て銀牌及賞牌を受け自來大に愛輸家の好評を受け現今は芝區芝口一丁目に販賣部を置き幸作氏主として販賣をなし芝區三田四國町に第一工場全區田町三丁目に第二工場を置き自ら其監督をなし目下一ヶ年間千五百臺の製作をなし本州全土は勿論南洋ジャワ、スマトラ、朝鮮及樺太等に大に輸出をなし居られり
人云ふ我々職工はダメと決して然からず氏の如き如何これ会が常に如何なる人でも人格の修養品性 の陶治大切と云ふ所以なり地位を得て其修養をせんとするは盗を捕へて縄を製するの類なり