2021年7月21日水曜日

森村翁の旅行譚①

 森村翁の旅行譚①

先の森村翁の旅行譚「ダルマ自転車で東海道を大旅行」について、少し傍証を加えたいと思う。

まず、
① 「ここに牛車の問屋があったので、車町という町名がつけられた」
とあるが、

これは、東京、高輪牛町(現在の港区高輪)のことで、江戸時代に幕府が各所の普請のために京都四条車町の牛屋木村清兵衛ら人足を呼び寄せて、各普請場に必要な材木や石材などを運搬をさせた。その後、この場所に土地を与え定住させたといわれる。そこから「牛町」とか「車町」と呼ばれるようになったと伝えられている。

下の錦絵は、歌川広重の名所江戸百景の一つ「高輪うしまち」である。
江戸湾を背景に大きな荷車と牛や草鞋の紐をくわえている犬が描かれている。浜に落ちているのは西瓜の食べかすか、空には大きな輪の虹まで描かれている。虹も西瓜の食べかすも、車輪の一部をイメージしたはずである。

この車屋の中には木製の三輪車やガタクリ車を明治の代になり製作した店もあったはずである。明治12年の朝野新聞、「芝公園内旧御成門脇にて貸自転車行うものあり」や大教院山門前の三輪車の写真を思い浮かべる。
それに高輪と言えば例の『ジャパン・パンチ』のラントン車が描かれた場所でもある。
こじつけではないが自転車に縁が深い土地柄と言えそうである。

名所江戸百景「高輪うしまち」
歌川広重 安政4年
国会図書館所蔵資料

東京・芝の大教院山門前 1874年頃
(日本カメラ博物館所蔵)

『ジャパン・パンチ』C・ワーグマン編 、江戸開市
場所は高輪 1869年


次回から以下の記事も順次傍証したい。

②「明治十四年にはじめて輸入された自転車を父上が買われ、小学生のころから親しんだのが、自転車に乗るようになったきっかけだという、もっともその頃の自転車は三輪車。大きな前輪が二輪、後輪は小さいのが一つで、もちろんチェンはないし、サドルは板の上にふとんをしいたといった風なものであった」

③「明治二十一年、十六のとき木製の二輪車でけいこをし、」

④「アメリカ製のなンとかいう車で銀座のナカジマとかナカムラとかいう店で買ったものだ」

⑤「土地ではみなれない車なんで停まると子供達がわっと寄ってきました。前に一度西洋人が通ったことがあるといっていましたから、」