2021年7月5日月曜日

老舗さんぽ㊷

 老舗さんぽ㊷

昨日の続きである。丁度ブログをアップした後にS氏からMessengerで大沢選手に関する資料が届いた。

それによると、
1、何故、大沢選手は自転車競技を始めるようになったのか?
2、何故、メルボルン・オリンピック大会の個人ロードレースに於いて棄権したのか?
3、何故、その後サイクル・スポーツの世界から身を引いたのか?
4、その後の消息は?
5、どうしていままで出宮選手や大宮選手よりも知名度が希薄なのか?
6、岩内町の何処の自転車店を主に利用していたのか?

その辺のことについて朧気ながら少し分かってきた。

まずこの資料であるが、著作権等の関係からどこまで公開してよいのか悩む。何れは公開しても良いのではと思っているが、ここでは触れないことにする。

1、大沢鉄男さんは昭和10年に北海道岩内町に生まれ、炭焼き農家の次男であった。中学校の通学には父親の黒塗り実用車で約10キロの道のりを毎日その自転車で通った。余談だが私も自転車に初めて乗ったのは小学2年の時で、やはり父の黒塗りの実用車であった。当然背丈が小さいので三角乗りであった。近くの子供は誰もがその乗り方で覚えた。唯一、近所にいた医者の息子だけが子供用の自転車を持っていた。
おそらく大沢さんも小さい頃はそのような乗り方で覚えたはずである。
この毎日の通学10キロの道のりが、彼の足腰を鍛えたはずで、その素質とともに自転車競技選手としての萌芽が出てきたはずである。
昭和10年の生まれとあるが、私が調べたところでは昭和11年である。どちらが正しいのか戸籍を確認していないので断定できない。
そして、誰が自転車競技選手の資質を見出し伸ばしたかというと、この資料では岩内町で当時自転車店を営業していた河野さんという店主であった。昨日のブログにも載せた河野商会 (代表 河野 隆幸  岩内町大浜17-7)を思い出す。おそらくその河野さんは初代の店主ではないかと推定する。名前は今のところ調査していないので分からない。
この河野さんの指導と薦めもあってに岩内町の運動会で開催された「自転車の遠乗り競争」に出場し中学生ながら見事2着でゴールしたのである。いままで無名であった大沢少年が一躍町内で知られるようになったのである。その後も河野さんの指導で国体にも出場すようになり、昭和29年の北海道国体レースでは9位になっている。このように徐々にその頭角を現してきたのである。
その後に行われたメルボルン・オリンピック日本代表選手選考会(立川競輪場)でも快勝し、ついに1956年の五輪出場のたった1枚の切符を手にしたのである。

2、メルボルン・オリンピック大会の個人ロードレースに於いて棄権、とあるが其の状況はどうであったのか、この資料から見えてきたのは、サポート体制の欠如などであったことが読み取れる。スタートから35キロ地点で運悪く落車、本来ならばすぐにサポートカーが来て素早く自転車を交換して再スタートをするのであるが、まったくそのようなサーポートは得られなかったのである。これが当時の日本の実情を物語っていると言える。自転車競技は北沢監督と大沢選手の二人だけで挑戦したオリンピックのようでもある。不運と言うよりも欠陥だらけの組織体制であったことが分かる。日本では今でも自転車はマイナーなスポーツと言われ、野球やサッカーなどと比べ極めて人気はない。そのようでは強い選手はなかなか輩出してこない。

3、帰国すると昨今と同じようにメダリストだけが優遇され、それ以外は冷たい視線が待っている。それでなくとも本人は落ち込んでいるのである。例えその敗因がサポート体制の不備や欠陥であったとしてもである。本当に選手は気の毒である。

4、その後は片倉自転車工業も辞めたようで、資料によると札幌で自転車以外の仕事をはじめたとある。自転車界から完全に退いたような印象も受けるが、本当にそうであろうか。

5、私は決して知名度が薄いとは考えていない。なぜならメルボルン・オリンピック出場やその後のアジア大会やローマ・オリンピックでも活躍している。当時の一流選手であったことは間違いない。本来ならこのような苦労人選手が監督やコーチ或いは組織委員会に残り後進の指導をすべきであると思う。選手の悩みが一番わかっているはずである。

6、大沢さんの行きつけの自転車店は河野商会であったことが分かった。そしてその店主からいろいろなアドバイスやら支援を受けたのである。下にその店の写真を載せる。
 
河野商会
Googleストリートビューより