2024年7月31日水曜日

レンツとアウティング誌 - 18

 レンツとアウティング誌 - 18

「OUTING」 スポーツ、旅行、レクリエーションのイラスト入り月刊誌

第 22 巻 1893年4月 - 9月 合本版

「OUTING」 AN ILLUSTRATED MONTHLY MAGAZINE OF SPORT, TRAVEL AND RECREATION .

VOL. XXII APRIL - SEPTEMBER 1893

241頁、

日が短くなり、夕方 5 時には暗くなってしまったので、国府津で宿泊せざるを得なかった。人力車の車夫に一番良い旅館はどこかと尋ねた。

旅館の主人を呼ぶと、何度も挨拶して、旅館の中に入るように勧めた。ここでの習慣はまた変わっていて、主人は私の靴を脱がせた。誰もが家の中をスリッパか素足で歩き回っている。彼は私を部屋に案内したが、そこにはテーブルも椅子もなく、ただ座布団が床に置かれているだけだった。日本の仲居はとても気配りが行き届いており、常にそばにいて、あらゆる注文に笑顔で応じてくれる。この正直な人たちの間には鍵のかかるドアはなく、単に障子で仕切られているだけである。ご飯、魚、スープ、お茶、ケーキの日本食は、小さなお膳で出され、もちろん仲居は私のそばにいて、あらゆる面で手伝ってくれた。箸はあったが、私は用心してフォーク、ナイフ、スプーンを持っていた。私が食べるのを見て、仲居はむしろ面白がっていた。

ここで、日本の習慣におけるもう一つの驚きが私を待っていた。宿の主人がやって来て、入浴したいかと尋ねた。私が「はい」と答えると、私は風呂場に案内された。そこで私は、男女が同じ浴室と浴槽で入浴しているのを見て、ただただ驚いた。息を整え、驚いたようには見えないようにて、私は服を脱ぎ、まるで何年も日本にいたかのように、6人の日本人女性と男性を気にせずに湯船に浸かった。


241頁

国府津駅前の蔦屋旅館

註、参考までに蔦屋旅館の絵葉書を載せる。この絵葉書は大正期のものだが、レンツの頃のイメージを伝えている。蔦屋旅館は当時国府津では有名な旅館であった。おそらくレンツはこの旅館に宿泊して、生まれて初めての混浴風呂を体験したのである。
現在この蔦屋旅館は廃業していて存在しない。

国府津にあった旅館
大日本職業別明細図 東京交通社 編 昭和12年発行
国会図書館所蔵資料
以下同じ

国府津駅周辺の地図

蔦屋旅館の別館

現在の国府津駅前
2024年7月25日(木)晴れ
自転車で現地調査

駅前のこの辺りに蔦屋旅館はあった

国府津館
現在は廃業

帰路に国府津の天神さんに寄り涼む
この日も猛暑で、13時現在の気温は36℃


2024年7月30日火曜日

レンツとアウティング誌 - 17

 レンツとアウティング誌 - 17

「OUTING」 スポーツ、旅行、レクリエーションのイラスト入り月刊誌

第 22 巻 1893年4月 - 9月 合本版

「OUTING」 AN ILLUSTRATED MONTHLY MAGAZINE OF SPORT, TRAVEL AND RECREATION .

VOL. XXII APRIL - SEPTEMBER 1893

118頁、

ここの砂はとても深かったので、小さな茶店に自転車を置き、ビーチに沿って歩き、かなりぐらぐらする橋を渡って江ノ島に着いた。すぐに二人の友人が私を追い越し、寺院や有名な洞窟を訪れた。活火山の島(註、伊豆大島)が約25マイル沖合にある。ハワイと同様、ここでも素晴らしいダイビングを目にした。江ノ島の年老いたダイバーは、観光客が水中に投げたコインを必ず引き上げるが、ハワイの少年たちとは違い、これらのダイバーはコインが底に沈むのを待ってから、コインを追って飛び込む。

江ノ島でいつもの日本の夕食を楽しみ、その後、対岸に戻った。ここで二人の友人に別れを告げ、私は一人旅を続けた。北へ進むと、藤沢で再び東海道に出た。ここから道は西に進み、時には浜辺に近づき、また時には山沿いの内陸部にそれる。雪に覆われた標高 13,000 フィートの富士山が、遠くにいつも見えていた。道はよく整備されていて、ほとんど平坦で、私は平塚、大磯、そして国府津までその道をたどった。これらの街の間には多くの小さな村があり、いたるところで愉快な子供たちの群れを目にした。少女の多くは背中に赤ん坊をおぶっていた。彼らは狭い通りを大喜びで叫びながら私を追いかけ、そして近くの住民全員が出てきて私を取り囲んだ。



海岸沿いの道

住民全員が出てきて私を取り囲んだ


参考資料

相模国江ノ島の岩屋本宮の弁財天像展巡礼、1847~1852年頃(木版画)
歌川広重 画 国会図書館所蔵資料
註、女性が何かを投げ二人の子供がダイビングしているのに注目。

明治後期の絵葉書
奈良県立図書情報館所蔵

「then over a rather rickety bridge to the Island」
「かなりぐらぐらする橋を渡って江ノ島へ」


2024年7月29日月曜日

レンツとアウティング誌 - 16

  レンツとアウティング誌 - 16

「OUTING」 スポーツ、旅行、レクリエーションのイラスト入り月刊誌

第 22 巻 1893年4月 - 9月 合本版

「OUTING」 AN ILLUSTRATED MONTHLY MAGAZINE OF SPORT, TRAVEL AND RECREATION .

VOL. XXII APRIL - SEPTEMBER 1893

117頁、

この鋳造品が642年前に作られたことを考えると、これは驚くほど完璧な作品である。この鋳造品は滑らかで、高さは50フィート、胴回りは98フィート、顔の長さは8フィート6インチ、目は4フィート、耳は6フィート6インチ、鼻は3フィート8インチ半、口は3フィート2インチ半。

この地域のその他の珍しいものとしては、数多くある寺院のひとつにある金の漆塗りの観音像と、かつて将軍だった頼朝公の墓がある。

西暦737年ごろ、日本の天皇、聖武天皇は全国に寺院を建てさせた。鎌倉もそのひとつだった。鎌倉大仏を鋳造した有名な青銅の鋳造者は五郎右衛門である。

この大仏のある地元の人々はそこへ行き、毎日祈りを捧げている。読者は笑止するだろうが、この大仏を万国博覧会のために実際に調達しようとしたが、それは無理であった。

鎌倉のホテルは、日本人がアメリカ式に経営しており、宿泊設備に文句を言う理由はまったくなかった。翌朝、車輪の泥をきれいに落とした後、友人たちは人力車で出発し、私は自転車で先導した。

鎌倉からの道は短い丘を上ってから、海岸に下り、かなりの距離を水辺に沿って走った。途中。天秤棒に重い荷物を背負った老若男女の日本人とすれ違った。彼らはいつも礼儀正しく、にこやかで、私が自転車で通ると「おはよう」や「さようなら」と声をかけてくれた。

再び長谷を通り、右に曲がって海岸沿いに江ノ島へ向かった。


117頁
仏陀と一緒に

写真の一部を拡大
中央がレンツ

レンツは、イギリスのノッティンガムのチャールズ・E・ヒルと横浜のジョージ・S・ネルソンという二人の友人を見つけた。

I found my two friends, Mr. Chas. E. Hill, of Nottingham, England, and George S. Nelson, of Yokohama. 

註、レンツのどちら側がヒルか?


1870年代の写真
鈴木 真一 撮影
メトロポリタン美術館所蔵

2024年7月28日日曜日

レンツとアウティング誌 - 15

   レンツとアウティング誌 - 15

「OUTING」 スポーツ、旅行、レクリエーションのイラスト入り月刊誌

第 22 巻 1893年4月 - 9月 合本版

「OUTING」 AN ILLUSTRATED MONTHLY MAGAZINE OF SPORT, TRAVEL AND RECREATION .

VOL. XXII APRIL - SEPTEMBER 1893

116頁、

衣装は豪華で、ヘアセットには細心の注意を払われている。窓にはガラスはなく、木の格子だけなので、通行人は遊女と自由に会話できる。このようにして、区画ごとに妓楼が次々と並んでおり、すべて明るく照らされ、隠す気配は全くない。

これらの遊郭は組織的かつ注意深く運営されていると言われており、日本の恥ずべきことに、このような施設は外国人を除いて、一言も話題にされない。実際、日本人は姉妹たちの中から妻を選ぶことが多いと聞いた。日本では結婚は単なる形式であり、法的な儀式は行われない。夫はほんのわずかな口実で離婚を成立させることができる。横浜にも同じような状況があるが、東京ほどではない。また、茶屋にも非常に怪しい性格のものが多いことも発見した。

半日が経って、私は日本政府からパスポートを受け取り、アメリカ大使フランク・L・コームズ氏の助けを借りて、陸路を通って長崎まで旅することができる。東京のアメリカ公使館の通訳であるウィリス・ノートン・ホイットニー博士も、ベテランの自転車乗りとして私にかなり興味を持ってくれた。彼は、日本各地の道路、鉄道、人口に関する非常に貴重で興味深い本を編纂している。

11月18日の午後、私はようやく日本を旅する準備ができた。

横浜への帰路をたどっていると、サーカスの一団が通り過ぎた。2頭の小さな象が行列の先頭に歩き、6人ほどの黒人と2、3人のアメリカ・インディアンとカウボーイがそれに続いていた。

彼らはただ、自分たちの道でもあるかのように行進し、周辺住民を見下していた。こうした一行が日本を旅行することを許されたことは残念なことだ。彼らのマナーは、外国人に対し好印象を与えない。実際、私はその行列を無事に通り抜けるのに非常に苦労した。行列はわざと道に広がり、私がアメリカ人だとわかっていても、行列のメンバーは不遜な態度を取った。

横浜に近づくと雨が降り始め、道は泥だらけになったので、私はイギリス人街で一夜を過ごすことにした。

翌日、私は東海道沿いの数マイル離れた戸塚まで走った。長い坂道の泥沼を自転車を押して上ったが、そこでは多くの労働者と荷車が泥の中で悪戦苦闘していた。それから大船まで坂を下って楽に走り、狭い人力車道を南へ鎌倉方面に向かい、田んぼを次から次へと通り過ぎた。田んぼでは日本人の男女が膝まで水に浸かって稲を刈っていた。これらの田んぼは灌漑用水路で十分に水が供給されている。この国は起伏が激しく、雨のため道は走りにくかった。

鎌倉の高台に着く前に、道は切通しになり、両側は垂直の壁があり、その間隔はわずか15フィートだが、高さは150フィートある。

鎌倉には世界的に有名な青銅製の大仏があり、642年の歴史がある。私は横浜の友人2人と会う約束をしていたが、地元の人たちに自分がどこへ行きたいのか理解してもらうことができず、盲目的に長谷まで自転車を走らせ、その間、四方八方で大仏を探していた。最後に私は長谷の警察署に立ち寄り、紙に大仏のスケッチをした。これは粗雑な絵だったが、地元の人たちはすぐにそれとわかり、大仏の場所を教えてくれた。鎌倉に急いで戻ると、イギリスのノッティンガムのチャールズ・E・ヒル氏と横浜のジョージ・S・ネルソンという私の友人がいた。彼らは人力車に乗っていて、道中ずっと地元の人たちに私を尋ねてくれていた。地元の人たちは私が歌いながら自転車に乗っていると、子供たちにキャンディーが欲しいかと聞いていると言っていたが、それは空耳である。

私たちは一緒に鋳造された巨大な青銅の鋳物である大仏を訪ねた。銅は周囲の丘から採掘されたと伝えられていた。


116頁

以下は参考資料
A Concise Dictionary of the Principal Roads
 Chief Towns and Villages of Japan
by W. N. Whitney 1889.

同書掲載の地図

「日本の主な道路、主要な町村、人口、郵便局などの簡易辞典」
東京米国公使館通訳の W. N. ホイットニー博士が公式文書から編集。
1889年


註、鎌倉大仏は重さが約121トンあり、青銅でできている。しかし、大仏の鋳造が始まった13世紀半ば、日本では青銅の主原料である銅の生産が落ち込み、国産銅が不足していた。これほど大量の銅をどのように入手したのか。鎌倉大仏の青銅を分析した結果から、大仏の材料は中国華南産であることが明らかになった。一説には、当時の中国から大量に輸入されていた銅銭(宋銭)が大仏の鋳造に使われたともいわれている。

 中国の銅銭が本当に使われたのかは定かでないが、現在では鎌倉大仏に青銅以外の素材が使われていることは知られている。
(ナショナル ジオグラフィック日本版2023年6月号により)

大正期の撮影
(白黒写真を手彩色)

写真は、ナショナル ジオグラフィック英語版1921年7月号より

2024年7月27日土曜日

レンツとアウティング誌 - 14

  レンツとアウティング誌 - 14

「OUTING」 スポーツ、旅行、レクリエーションのイラスト入り月刊誌

第 22 巻 1893年4月 - 9月 合本版

「OUTING」 AN ILLUSTRATED MONTHLY MAGAZINE OF SPORT, TRAVEL AND RECREATION .

VOL. XXII APRIL - SEPTEMBER 1893

115頁、

しかし、奇妙に幻想的である。金箔をふんだんに施し、美しい色彩で彩られた精巧な木彫りが、建物のあらゆる部分を飾っている。日本人は、独特の装飾技法に驚くほど長けているが、残念ながら、私にはその詳細を説明できるほど十分に知識はない。私の個人的な印象では、普通の人でも、日本美術の細部を半分ほど習得すればよいだろう。木細工や真鍮の装飾が美しく漆塗りされていることに気づかされた。

寺院の周囲には、美しい木陰の公園があり、美しい道路と、優美な葉やきれいな花が咲いている。日本人は花が大好きで、さまざまな場所で、菊やその他の美しい植物が植えられた庭園が見られる。庭師たちは、特定の植物を盆栽にしたりすることに特別な喜びを感じているようだ。

東京に到着した翌日、日本の伯爵か貴族の葬儀が行われ、それは壮麗な行列だった。何百人もの人々が、紙でできたさまざまな色の花で覆われた飾りを掲げて行進していた。他の人たちは、金箔でできた植物を持ち、真っ白な服を着て行進の先頭に立っていた。次に帝国軍の連隊と高官の馬車が続いた。その後ろには頭を剃った僧侶が続いた。棺を載せた木製の覆いは、数十人の男性の肩に担がれていた。彼らも白い日本の衣装を着ていた。棺担ぎの後には、軍服を着て武器とザックを背負った帝国軍の兵士が続いた。その後に人力車に乗った故人の友人たちも続いた。この葬儀の花飾りに 3,000 ドルが費やされたと聞いた。何千人もの群衆の中に、歯を黒く染め眉毛を剃る習慣をまだ続けている年老いた既婚女性が数人いるのに気づいた。私はこのような女性とは決して結婚しないだろうし、正直言って彼女たちは醜悪に見えたので、そのような因習は推奨できない。生まれつき洗練されていて、賢く、芸術的で、詩的で、並外れて礼儀正しい人々の性格と奇妙に融合したこの風習は、アメリカ人を驚かせずにはいられない特異性の1つである。そして、その特異性は残念ながら女性の貞操に対する甚だしい無関心である。なぜこのような国でそのような状況が存在し得るのかは、私の推論の範囲外であるが、ミカドの帝国を訪れたほとんどの人が証言できるように、それは存在する。女性の道徳水準が低いことは、真のアメリカ人にとっては特に不快なことであるが、日本の水準は疑問の余地なく低く、アメリカの水準から判断すると、国内のどこにも女性が適切な地位を占めていない。日本は奇妙なことにアメリカと異なっており、花の国では遊女であることは恥ずべきこととは見なされていない。年配の住民が私に話してくれたところによると、若い女性の両親は、定められた金額または借金と引き換えに娘を妓楼に売り、借金が帳消しになるまで女性はそこに留まることをいとわないと云う。そして日本の女性は年長者や両親に対して非常に自己犠牲的な性質を持っているため、彼らの望みに疑問を抱くことなく従う。東京の吉原では、通行人の目に、実際に見るまではほとんど信じられないような驚くべき光景が映る。遊女たちが、大きくて広々とした建物に収容されており、各建物の1階に格子の窓があり、それぞれの窓には、夜の早い時間帯から、蝋人形のように美しい十人、十五人、二十人の女性たちが座っている。

註、このページには日本の恥部と云ってもよい部分が書かれている。少し偏見と誇張もあるがレンツは日本の因習をよく観察している。


115頁
虚無僧

吉原遊郭 明治期
日下部金兵衛 撮影

2024年7月26日金曜日

レンツとアウティング誌 - 13

 レンツとアウティング誌 - 13

「OUTING」 スポーツ、旅行、レクリエーションのイラスト入り月刊誌

第 22 巻 1893年4月 - 9月 合本版

「OUTING」 AN ILLUSTRATED MONTHLY MAGAZINE OF SPORT, TRAVEL AND RECREATION .

VOL. XXII APRIL - SEPTEMBER 1893

114頁、

狩猟対象には、シカ、イノシシ、ノウサギ、白鳥、ガチョウ、アヒル、チドリ、キジ、ヤマシギ、ウズラ、シギ、ハトなどが含まれており、条約の範囲内でかなり良い狩猟が楽しめる。ただし、許可証を取得する必要があり、地元の当局から取得でき、10月15日から4月15日までのシーズンで1人あたり10円かかる。日本人はスポーツマンとして知られていないが、気立てが良く礼儀正しい人々である。11月16日の午後、私は日本国内での最初のサイクリングの準備が整い出発した。日本政府は陸路を旅行するために特別なパスポートを持っていることが必要で、私は東京まで自転車で行き、アメリカ公使館を訪問する。メインストリートを通って横浜を離れると、私は古い「東海道」、つまり国道に出た。この道は海岸沿いに続き、常に水辺が見え、平底船やボートが行き交っている。この幹線道路は完全に平坦で砂利で舗装されており、快適な走行と好天が相まって、まさに素晴らしいサイクリングとなった。道中で出会う乗り物は、人力車と様々なスタイルの二輪車(註、大八車など)だけだった。これらの人力車は、腰に小さなリボンを巻いただけの裸の少年から、足を引きずってやっと歩ける老人まで様々だった。道路法は私たちのものとは異なっており、人力車が3台か4台と衝突しそうになったとき、人力車は常に左側を走ることに気づいた。21マイルの距離の間6つか7つの村を通り過ぎ、道の両側に家や店がほぼ一列に並んでいた。子供、人、車で混雑したこの狭い道を自転車で走るには、細心の注意が必要だった。地元の人たちは驚いて私を見て、それから車輪の上の文字を読んだ。私はその文字を日本語に書き直した方がよいと考えていた。しかし、私が通り過ぎるといつも喜んでいるようで、見えなくなるまで私が車輪を回すのを見守っていた。時折、盲人が杖をついて道を歩いて行くのに出会った。道端には、風雨にさらされた小さな石像がいくつかあったが、その顔の表情から、この世で高い地位に居続けることに疲れている様子がうかがえた。

2時間で東京に着き、街の広さに驚いた。路面電車が警笛で進行を知らせていた。確かに、馬車は見栄えのよい馬に引かれており、馭者は警笛を頻繁に鳴らしていた。

人口1,377,000人のうち、300人が白人である。彼らはほとんどすべて外国公使館に関係している。彼らのうち約 30人が自転車に乗っている。自転車は人力車よりも速くて便利だ。空気入りタイヤ自転車は東京を見て回るのに最適だった。人力車では不便だが、私はどこでも自転車で移動できる。皇居と政府の建物は、昔の要塞として使われていた古い壁に囲まれており、壁の周りには浅い水路がある。水路はきちんとした橋が渡されている。皇居周辺の道路は、ゴミがまったくなく、非常にきれいな車道となっている。東京は寺と神社の街だ。すべてを見て回るには、一般の観光客にとっては時間がかかりすぎるだろう。観光客は、一般的に一部だけで満足する。私は芝の増上寺まで自転車で行き、入場料とガイド料として通常の 20 セントを請求された。神聖な建物に入る前に、靴に用意されたカバーを履くように指示された。床は一部、光沢のある岩石でできている。内部の印象は奇妙に幻想的であった。


114頁
図の説明
日本女性の権利


「車輪の上の文字」、私はその文字を日本語に書き直した方がよいと考えていた。

増上寺
日本之勝景 : 一名・帝国美観 明治35年12月25日出版
国会図書館所蔵資料

2024年7月25日木曜日

レンツとアウティング誌 - 12

 レンツとアウティング誌 - 12

「OUTING」 スポーツ、旅行、レクリエーションのイラスト入り月刊誌

第 23 巻 1893年10月 - 1894年3月(合本版)

OUTING AN ILLUSTRATED MONTHLY MAGAZINE OF SPORT, TRAVEL AND RECREATION. VOL. XXIII. OCTOBER, 1893—MARCH, 1894. 

113頁、

今日、日本は国家の歴史において前例のない時代である。因習と進歩の中間の位置にある。日本の国民は、古い習慣を捨てて新しい習慣を取り入れることに努めており、この驚くべき移行の時代は、おそらく、賢明な観光客にとって、日本を訪れる際の最も興味深いところである。今の日本は二度と見られないかもしれない。しかし、数年後には、絵のように美しい民族衣装と風変わりな習慣は、より近代的な事物の流入により一掃され、失われるだろう。この国は見栄えが良いが、半ヨーロッパ風の建築物が点在する魅力的な場所になるだろうか。それとも、ブロードクロスとシルクのタイル、あるいは「ワース風」の帽子をかぶった若い日本人は、シルクとサテンの優雅な衣装を着て、昔ながらの扇子をあおいでいるだろうか?

外国人に対する制限は、近年大幅に緩和されたが、決して廃止されたわけではない。現在、ヨーロッパ人は、パスポートなしで、東京、横浜、神戸、長崎、大阪、函館、新潟の条約港を訪問または居住できる。条約の境界外にある名所を訪問するために必要な許可は、訪問者の国籍の領事館を通じて適切な申請をすれば取得できる。

横浜は外国の影響をあまりにも強く受けているため、数日以上滞在しても訪問者にとって特別な関心を引くものではない。かつて江戸と呼ばれていた東京は、横浜から 18 マイル離れており、外国の痕跡を多く残しているが、大きくて忙しい都市であり、特別な魅力を数多く備えている。芝の増上寺、美しい上野公園、浅草寺、日本の伝統的な建築様式が残る商店や典型的な日本の街は、どれも時間を十分に満たしてくれる。日光は、寺、神社、東照宮、華厳ノ滝、小川、そして魅力的な森の風景に恵まれ、訪れる人を必ず楽しませてくれる。日光からすぐ行ける距離には、聖なる山「男体山」、中禅寺湖、そして天然温泉の湯元もある。東京から南には、景色や寺院が密集していることで有名な小さな場所がたくさんある。その中でも、かつては日本の北東の首都であったが、今では小さな村に過ぎない鎌倉には、鶴岡八幡宮と云う大きな興味深い神社があり、その近くには有名な青銅の大仏がある。さらに南には横須賀があり、日本海軍本部と兵器廠の所在地で、近くには有名な英国人パイロット、ウィリアム・アダムスの墓がある。標高 4,000 フィートの神聖な山、大山は、登る苦労の報酬として、素晴らしい紅葉、見晴らしの良い景色、いくつかの寺院、そして一連の渓流を見せてくれる。数マイル南には国府津があり、美しい箱根の山々、温泉、芦ノ湖に着く地点であり、多くの観光を楽しむのに便利な地域である。国府津から鉄道は実に印象的な風景を横切り、雄大な富士山の麓に近い御殿場まで行くことができる。そこから神聖な山に登ることができる。

沿岸の蒸気船サービスにより、絵のように美しい島々、湾、水路にアクセスでき、想像できる最も美しい景色のいくつかがこのようにして明らかになる。世界で最も注目すべき航海の一つは、神戸と長崎の間の壮大な「瀬戸内海」を通る航海である。船は、頭上に雲ひとつない空のように澄み切った青い海の中を、陸地とほとんど隔てられた水路に沿って進む。目にする魚や野鳥はどれも奇妙な形と色をしており、日本以外のものとは異なっている。波のない海の上で眠る大きなアオウミガメのように、島々が至るところに現れる。汽船が進むにつれて、陽光が降り注ぐ谷間は魔法のように開いたり閉じたりする。低く丸みを帯びた鮮やかな緑の丘が水辺から緩やかにそびえ立ち、遠くの山々の青いもやの中に消えていく。穏やかな空気は、この広大な海域に強い風が無いかのようにゆったりと流れる。岬が現れては消え、残された輝かしい展望の豊かさの中に次々と景色が映り、ついには夢のような美しいパノラマがすべて現れる。この趣と青葉と花の楽園では、スポーツも楽しめる。


113頁

日光 湯ノ湖 明治期
日下部金兵衛 撮影

2024年7月24日水曜日

レンツとアウティング誌 - 11

  レンツとアウティング誌 - 11

「OUTING」 スポーツ、旅行、レクリエーションのイラスト入り月刊誌

第 22 巻 1893年4月 - 9月 合本版

「OUTING」 AN ILLUSTRATED MONTHLY MAGAZINE OF SPORT, TRAVEL AND RECREATION .

VOL. XXII APRIL - SEPTEMBER 1893

112頁、

何世紀にもわたって、この神秘と美の国は外の世界に対して封印された本のようであった。人々は他国の発展や衰退についてほとんど知らず、気にもかけず、海に守られた楽園で満足して暮らし、ある程度の芸術と学問を育みながら、文化を壊そうとするる外部の影響を見守っていた。権力のある武士が多数おり、それぞれが自分の影響力を拡大しようとし、古い慣習を厳格に守ろうとしていた幕府は、武士の権力を打ち砕くような近代的な方法や啓蒙主義を支持するつもりはなかった。

しかし、ついに進歩の日が来た。そして、いつものようにその変化は流血を伴ったが、それは驚くほどこの国にとって有益だった。日本人は生まれつき野心的で賢い民族であり、世界の大国の成功の秘密をつかむとすぐにそれを自分たちの利益のために利用した。

イギリス人の水先案内人「ウィリアム・アダムス」を、造船と航海に関する彼の知識を利用する目的で強制的に拘留したことは、おそらく、他のすべての国に対して築かれた障壁を最終的には開くようなものだった。


112頁

2024年7月23日火曜日

レンツとアウティング誌 - 10

  レンツとアウティング誌 - 10

「OUTING」 スポーツ、旅行、レクリエーションのイラスト入り月刊誌

第 22 巻 1893年4月 - 9月 合本版

「OUTING」 AN ILLUSTRATED MONTHLY MAGAZINE OF SPORT, TRAVEL AND RECREATION .

VOL. XXII APRIL - SEPTEMBER 1893

55頁、

この国のすばらしい風景を正当に表現することは、たとえ大著であっても不可能であり、ましてや数ページのスペースに説明を詰め込もうとすることは難しい。山脈は、峰や峠、荒々しい岩山や夢のように美しい渓谷を見せてくれる。川は、分水嶺を分ける山々のため、必然的に海岸の湾や河口に到達するまでの距離が比較的短い。しかし、その多くは、世界でも最も美しい小滝に匹敵する。飛び跳ねる滝や激しい急流で区切られ、非常に魅力的である。湖は、数も面積も重要ではない。その中でも女王は、宝石のような琵琶湖である。瀬戸内海、海岸線、または小さな島々を見ない限り、日本は、水の効果が重要な役割を果たす風景として注目に値しない。しかし、山々、起伏のある森林に覆われた丘の果てしない連なり、なだらかな草原の斜面、ありとあらゆる緑の色合いを見せる谷、そして何よりも、言葉では言い表せないほど豊かな花々と豊かな葉の茂みは、ここを地上のエデンのような、旅行に理想的な土地にしている。これに加えて、人々の生活や生活様式の古風で斬新な趣、太陽の下の他のどの国とも違う都市や町の多様で魅力的な特徴、古い城や遺跡、文字通り何千もの寺院、そこには、日本美術の中でも最も奇異な作品が豊富に展示されており、神秘的な過去の記憶に満ちているかのような雰囲気がある。過去の戦乱の歴史を聞くと今でも身が凍るような思いになるかもしれない。そして、これらの宗教的痕跡は、あらゆる場所にあり、壮大な森に囲まれた場所、あるいはこの美しい菊の国の滝を見下ろす場所などで見ることができる。


55頁
図の説明、
「私たちは道端の茶屋に立ち寄った。」(p. 52.)

2024年7月22日月曜日

レンツとアウティング誌 - 9

 レンツとアウティング誌 - 9

「OUTING」 スポーツ、旅行、レクリエーションのイラスト入り月刊誌

第 22 巻 1893年4月 - 9月

「OUTING」 AN ILLUSTRATED MONTHLY MAGAZINE OF SPORT, TRAVEL AND RECREATION .

VOL. XXII APRIL - SEPTEMBER 1893

54頁、

数え切れないほどの島々、そのうち 3つはある程度広さがあり、最も小さい島はカモメが住むほどの狭さだが、その島々には陸路と水路のさまざまなルートがあり、魅力的な風景へと続いている。3つの主要な島のほぼ中央を貫いて、絵のように美しい火山山脈が走っている。その多くはロッキー山脈やアルプス山脈のような立派な高さに達し、少なくとも 1つは「山の王」の称号に値するほどである。この後者は、もちろん有名な富士山だ。日本の芸術家によって頻繁に描かれる神聖な山で、雲に覆われ雪をかぶった頂上は、100マイル離れたところからもよく見える。富士山の大きな円錐形は、低い山々に囲まれた平野から単独でそびえ立っている。富士山は標高約 12,300 フィートで、エトナ山やヴェスヴィオ山を再び大噴火させるほどの火山の記録を持っている。富士山の噴火は、799 年、864 年、936 年、1082 年、1649 年、1707 年に起きたとされ、最後の噴火は1707年12月16 日に始まり、1708年1月22日まで続いた。この噴火の時に、山の南斜面の高いところに宝永山と呼ばれるこぶが形成された。伝説によると、富士山は一夜にして出現し、京都近くにある観光客に人気のある美しい琵琶湖も同時に形成されたとのことである。この山の登頂には、健常者なら誰でもこの国を訪れた際に、その偉業のリストに加えることになるが、5つの異なる地点から登る。登山口は、村山、須山、須走、吉田、人穴からなり、最も便利なのは須走だろう。須走村から夜明け前に出発すれば、登りも下りも一日で十分である。しかし、もっと良い計画は、山頂で一夜を過ごし、見晴らしの良い場所からめったに見られない鮮明な眺めを得られるチャンスを狙うことである。一度楽しんだら忘れられない思い出になるだろうし、最悪の場合、雲で視界が遮られたとしても、西の山々の周りの雲に映る影富士という不思議な現象を目にすることができるかもしれない。山頂までの道の上部は、何百人もの巡礼者が捨てた草鞋ではっきりと区別されており、シーズンに訪れると、観光の登山者は日の出前に火口の北西側にある山頂「剣ヶ峰」の周りに巡礼者が集まり、熱心な祈りを捧げながらご来光の出現を待っているのを目にするだろう。


54頁
註、以下は写真の説明書き
「他の人たちは雪駄で歩いていた。」(p. 52.)

2024年7月21日日曜日

レンツとアウティング誌 - 8

 レンツとアウティング誌 - 8

「OUTING」 スポーツ、旅行、レクリエーションのイラスト入り月刊誌

第 22 巻 1893年4月 - 9月

「OUTING」 AN ILLUSTRATED MONTHLY MAGAZINE OF SPORT, TRAVEL AND RECREATION .

VOL. XXII APRIL - SEPTEMBER 1893

53頁、

私はイギリスの銀行で50ドルの小切手を換金し、70.09ドルの日本のお金を受け取ってとてもうれしく感じた。「円」は貨幣単位だが、アメリカのドルは高いプレミアムが付いていて、日本の円は1ドルの約70セントの価値しかないことがわかった。

横浜の人口は約115,000人で、そのうち約2,000人がヨーロッパ人で、2,600人が中国人である。狡猾な中国人は、いつも強いドルを狙っている。

ホテルの廊下には、中国人がいて、新しく到着した客に名刺を渡す。

ホテルの客が夕方早く部屋に戻って少し休むと、廊下にいる中国人商人が部屋の明かりを見て、商品サンプルを急いで取りに行き、軽くノックして微笑みながら入って来る、アメリカの価格に比べるととても安い、そしてシルクやサテンなどの商品を売る。

横浜には数人のサイクリストがいるが、常に乗っているわけではない。彼らのお気に入りのルートは東京方面である。

私は横浜で2日間過ごし、主要な名所、骨董品店、商店、寺院、運河、風変わりな水上船を見て回り、民族衣装を研究する時間も見つけた。

夕方に日本の劇場を訪れた。サンフランシスコで見た中国劇場とはまったく違うものであった。演劇は朝の9時か10時に始まり、夜の同じくらいの時間に終わる。ニューヨークのスターになるようなライバルは多くないが、全体的に俳優や女優はかなりうまく演技をしていた。

舞台装置があり、舞台全体がローラーに乗っていて、変える必要があるときは、俳優と全員がタレットの上で半分回転する。後ろは別のシーンで、前を向くと次の幕が休憩なしで続く。これは悪い考えではない。舞台の両側には投影または通路があり、観客の後ろの会場まで伸びている。旅に出て、帰ってくる場面を演じるときには、俳優はこれらの通路を通って舞台に出たり、退場したりする。劇中はずっと、日本のバンジョーが鳴り響いている。用意されたボックスには椅子はなく、座るためのマットがあるだけだ。観客の多くは、老若男女を問わず、タバコや小さなパイプタバコを吸っていた。

日々の旅について述べる前に、日本について簡単に説明しておこう。もちろん、私の情報のほとんどは、この帝国の最南端の目的地に到着するまで得られなかったが。日本は間違いなく美しい国だ。無数の島々に囲まれ、そのうちの3つは、ある程度の大きさである。


53頁

2024年7月20日土曜日

レンツとアウティング誌 - 7

  レンツとアウティング誌 - 7

「OUTING」 スポーツ、旅行、レクリエーションのイラスト入り月刊誌

第 23 巻 1893年10月 - 1894年3月

OUTING AN ILLUSTRATED MONTHLY MAGAZINE OF SPORT, TRAVEL AND RECREATION. VOL. XXIII. OCTOBER, 1893—MARCH, 1894. 

52頁、

有名な雪に覆われた富士山が横浜の背後の丘の上にそびえ立ち、港にはイギリス、オランダ、アメリカの軍艦や商船、変わった帆をつけた日本の古いジャンク、あらゆる種類のタグボートや和船がいっぱいだった。しばらくは大騒ぎであったが、その後、船室の乗客は互いに別れを告げ、小グループに分かれてホテルのタグボートで上陸した。

中国行きの三等船室の中国人は、船が港に停泊している日中は上陸を許可されなかった。彼らのうち3人は太平洋を渡る途中で亡くなり、防腐処置を施して自宅に運ばれる。蒸気船会社は、死因が伝染病でない場合は、常に遺体を中国に運ぶことに同意している。

オセアニック号での快適な航海を楽しんだが、19日半の航海を終えて上陸できたことに皆喜んでいた。自転車とカメラを担いで、横浜グランドホテルのタグボートに乗り込んだ。埠頭に着くと、そこらじゅうに日本人がいた。裸の体にマントを羽織り、雪駄を履いて、親指と人差し指の間をリボンで留めている人もいた。背中に目立つ文字が書かれた半纏を着ている人もいた。ほとんど全員が小柄だった。女性の中には小柄だがとても美しい人もいた。人力車に乗っている人もいれば、下駄や雪駄を履いて歩いている人もいて、その下駄はガラガラと音を立てていた。

税関に着くと、係員が自転車とカメラの操作を要求した。通り過ぎるだけだと説明しても納得がいかなかったので、私はアメリカ領事を探した。彼は、私のような品物にはすべて5パーセントの関税がかかると教えてくれた。しかし、税関職員は自転車とカメラのみを課税し、5.60ドルの関税を課したが、この状況下では文句を言う理由はなかった。もし私が横浜経由で日本を出国していたら、この金額は返金されていただろう。その後、私は人力車をいたるところで見かけながら、バンドと呼ばれる大通りを自転車でホテルまで走った。車夫は平地で何時間も6マイルの歩幅で走り続ける。中には裸足の者もいた。午後、オセアニック号の同乗者5人が人力車を雇い、私は彼らと一緒に自転車で横浜郊外に向かった。市内の日本的な地域の狭い通りには、歩道はない。あらゆる階層の旅行者が行き交い、天秤棒で大量の商品を肩に担いだ男たちや、大八車、そして背中に赤ん坊をおんぶした大勢の子供たち。一、二度、赤ん坊が気持ちよさそうに眠っているのを見た。郊外に着くと、人力車道は起伏に富んでいたが、いつも見事な石畳が施されていた。車夫には、起伏のある区間を走るのを手伝ってくれる押し手も付いていた。しかし、苦労が多いに違いない。男たちは汗だくだった。坂を下りたり、彼らには容易ではない急な坂を楽々と登ったりする自転車の私を、うらやましそうに見ていた。私たちは道端の茶屋に立ち寄り、飲み物を飲み、女性たちの優雅な踊りを楽しんだ。美しい日本の女性たちが茶屋に迎え入れてくれたときに、私たちに気持ちよくお辞儀をして微笑んでくれたのを見るのはとても魅力的だった。アメリカではチップをやらないでカフェの店員から礼儀正しい挨拶を受けるとラッキーだと思うが、それとは大違いだ。


52頁

「オセアニック号の同乗者5人が人力車を雇い、私は彼らと一緒に自転車で横浜郊外に向かった。」(p. 52.)

「他の人たちは雪駄を履いて歩いていた。」(p. 52.)


「私たちは道端の茶屋に立ち寄った。」(p. 52.)

2024年7月19日金曜日

レンツとアウティング誌 - 6

 レンツとアウティング誌 - 6

「OUTING」 スポーツ、旅行、レクリエーションのイラスト入り月刊誌

第 23 巻 1893年10月 - 1894年3月

OUTING AN ILLUSTRATED MONTHLY MAGAZINE OF SPORT, TRAVEL AND RECREATION. VOL. XXIII. OCTOBER, 1893—MARCH, 1894. 

50頁、

北から南へ順に見れば、それぞれ北海道、本州、九州と呼ばれる3つの大きな島々は、重要である。これらは日本そのもの、つまり日本を形成している。その広大な境界内には、生活の中心地があり、驚くほど多様な自然の景色、外国人の興味を引くような古代と現代の生活を示すさまざまな面、そして数え切れないほどの歴史的ロマンチックな関連場所、今は永遠に消滅した政府や、この国の宗教である神道と仏教の記念碑などがある。この島国、あるいはむしろ島嶼の王国は、朝鮮海峡によってアジアの東海岸から隔てられており、東、北、南は太平洋の広い海域に囲まれている。間違いなく、その地理的位置から、かつての名称である「Jih pûn」が生まれた。これは「日の出ずる国」と翻訳できる。そして、この2つの単語が古代中国語に属していたことから、この名称は「Nippon」に変更されたと思われる。現在、この名称は、上記の3つの島のうち、中央で最も大きい島に当てはまる。

海岸のはっきりとした眺めは、壮大で絵のように美しい。近づくにつれて、その印象はかなり和らぐが、美しさは変わらない。徐々に、遠景のなだらかなもやはその力を失い、風景はより鮮明になる。現在、目には明るいブルーの湾、入江、水路、そして爽やかな緑のさまざまな色合いがはっきりと見える。それは太平洋を渡る長い航海の後の観光客の心を喜ばせる理想的な眺めである。

11月14日の早朝、オセアニックは横浜に到着し、日の出とともに港に停泊し、何百艘もの日本の舟に囲まれた。この和舟はバランスのとれたオールで推進する小型の平底船で、船主たちは忙しく働いていた。この奇妙な和舟の群れは何百人もの日本の商人を乗せ、日が昇る前に甲板に商品を並べ、中国人に売りつけていた。

港は絵のように美しい景色だった。

註、何故か四国が忘れられている。


50頁

図を拡大
人力車に乗っている人もいた (P.52)

2024年7月18日木曜日

レンツとアウティング誌 - 5

 レンツとアウティング誌 - 5

「OUTING」 スポーツ、旅行、レクリエーションのイラスト入り月刊誌

第 23 巻 1893年10月 - 1894年3月

OUTING AN ILLUSTRATED MONTHLY MAGAZINE OF SPORT, TRAVEL AND RECREATION. VOL. XXIII. OCTOBER, 1893—MARCH, 1894. 

レンツの世界自転車旅行 菊の国で

ハワイから日本に向かう途中の太平洋の夕焼けは素晴らしかった。夕方ごとに、太平洋でしか見られない水面や空に、華やかな色彩が映し出され、水平線上の小さな雲は、空と水が言葉では言い表せないほどの壮麗さで溶け合い、輝く空間に停泊した小さな島のようだった。太陽が風のない波に沈むと、今まで見たこともないほど輝く月が、波打つ水面にきらめき、銀色に輝く道が海から果てしなく広がるように見えた。天候に恵まれ、航海中は幸運だったか、太平洋の夕焼けや月明かり以上に美しい絵は見たくないと思った。

三等船室の乗客にとって、夜は暑く、箱の中のイワシのように寝台に詰め込まれていた。中国人の多くは甲板で寝た。船員たちは誰に対しても親切だった。初めての航海だったので、すべてを見てみたくて、機関長と一緒に機関室を訪れた。そこでは、2 台の巨大な複合エンジンが17インチのシャフトで18フィートのプロペラを駆動していた。空気ポンプ、ボイラー給水装置、凝縮器、発電機があり、まるで陸上の大きな鉄鋼工場にいるかのようだった。炉は上半身裸の中国人の火夫によって燃やされていた。猛暑で汗が小川のように流れ落ちていたが、彼らは忠実にそして楽しそうに働いていた。昼夜を問わず稼働し、船首から船尾まで揺れ動いていたにもかかわらず、蒸気船の建造における完成度の高さには驚かされるばかりである。16~18日間海上を航行し続けたが、この汽船には何の異常もなかった。

11月5日の深夜、船は子午線を越え、東半球に入った。グリニッジの東の時間を計算するには、ここではカレンダーを1日飛ばす必要がある。したがって、11月6日は乗船者全員にとって空白の一日であった。船上の時間は航海計器によって毎日計算され、1日あたり300~320マイルの航行で20~23分進んだ。海は日本海岸から 500 マイル以内の地点まで穏やかだったが、その地点から風が強風に変わった。この緯度では時速約3 マイルの日本海流と逆に風が吹き、1日か2日は海が荒れた。未知の国にどんどん近づくにつれ、私の好奇心は驚くほど高まっていった。訪問を計画していたすべての国の中で、個人的には日本に一番興味があったからだ。出発前に日本についてよく調べ、かなり魅了されていた。ミカドの帝国についての知識が悲しいほどに不足していることはわかっていたが、それでも日本にいる間にもっと学べるかもしれない。他のすべての国については、運に任せ、或いは結果に任せるつもりだった。それらの国に関する学校での曖昧な知識を増やそうとは思わなかった。日本と全世界が思い通りに推移し続けていけばよい。おそらく今日、地球上のどの地域も、この奇妙な群島ほど多くの興味深い特徴を持ち、知的な観光客にこれほど魅力的な探検の場を提供している国はないだろう。


49頁

2024年7月17日水曜日

レンツとアウティング誌 - 4

 レンツとアウティング誌 - 4

「OUTING」 スポーツ、旅行、レクリエーションのイラスト入り月刊誌

第 22 巻 1893年4月 - 9月

「OUTING」 AN ILLUSTRATED MONTHLY MAGAZINE OF SPORT, TRAVEL AND RECREATION .

VOL. XXII APRIL - SEPTEMBER 1893

レンツの世界自転車旅行

・・・興奮した日本人の一人が私をスカウ(平底船)から突き落そうとしたときに親切なオセアニックの士官たちが通路を開けてくれたので、自転車とカメラを背負った私は無事に甲板にたどり着くことができた。

日本人は全員操舵席の前に、中国人は船の後方に移された。この二人種はあまり親しくないようだからである。

8時に船は錨を上げ、横浜から東行きで入港したばかりの蒸気船ゲールク号とすれ違った。

私たちは島々の間の月明かりの光景を何時間も楽しみながら航海し、その熱帯の美しさに満足して船を降りた。

ハワイ島は活火山があり、モロカイ島には約700人のハンセン病患者の居住地がある。もちろん、この恐ろしい病気の地を訪れようとする人はほとんどいない。政府はハンセン病患者を居住地内に留めておくことで、この病気を撲滅したいと考えている。

朝、私たちはタホアリと呼ばれる最後の小さな岩の多い島を通過し、3,486マイル離れた横浜へ連れて行ってくれるまで青い海と空しか見えなかった。この船には全部で850人が乗船しており、その大部分は中国人であった。彼らはドミノ、トランプ、その他のゲームで昼夜を問わずギャンブルをして時間を過ごしていた。アヘン喫煙者のために小さな船室が設けられ、そこでは常に15人から20人ほどがこの致命的な麻薬を吸っていた。

船室の乗客は、海上旅行者がするように、ゲームをしたり、会話をしたり、デッキを歩き回ったり、その他の方法で時間を過ごしていた。午後になると、士官と船室の男性乗客の一部はクリケットの試合に熱中し、ボールが船外に落ちないように船の両側にはネットが張られていた。(続く)

註、一部東洋人に対する偏見も伺える。当時の状況は分からないが混雑した平底船に自転車と荷物を背負って乗船したのはどうなのか。中国人がアヘンを吸うようになった一番の原因はなにか。屈辱的なアヘン戦争を忘れてはならない。この辺のことも考えあわせて読む必要があろう。


419頁

日本に向かう途中、
オセアニックの甲板で物思いにふけるレンツ

Oceanic Steamship Company の蒸気船
「OUTING」誌
VOL. XXII.
APRIL-SEPTEMBER, 1893 .415頁の挿絵

2024年7月16日火曜日

レンツとアウティング誌 - 3

 レンツとアウティング誌 - 3

アウティング誌 VOL. 20、1892年

OUTING AN ILLUSTRATED MONTHLY MAGAZINE OF SPORT, TRAVEL AND RECREATION . VOL. XX. APRIL- SEPTEMBER, 1892 

註、念願であったアウティング社の特派員となったフランク G.レンツ。

アウティング社の帽子が誇らしげに見える。しかし、この自転車世界旅行のスタートが死出の旅路になるとは誰も予想していなかった。

以下はOUTING の広告

自転車愛好家の皆様へ

世界中の自転車愛好家、そして OUTING誌の無数の読者は、1892年5月15日に OUTING社 がピッツバーグのフランク G. レンツ氏という自転車で世界一周する一人の勇敢な人物を送り出すというニュースを喜ぶだろう。レンツ氏は、OUTING社の自転車として特別に作られた空気入りの安全自転車に乗って、ニューヨークからアメリカ大陸を横断しサンフランシスコ向けて出発する。スティーブンス氏の経験を生かして、東ではなく西へ出発し、気候の変化の連続性を利用して、スティーブンス氏が横断した地域とは異なる地域をカバーすることになる。

レンツ氏は有名な自転車愛好家であり、L. A. W.、マンハッタン アスレチック クラブ、その他のスポーツ団体の著名なメンバーである。レンツ氏は不屈のサイクリストであり、熟練したアマチュア写真家であるだけでなく、鋭い観察力を持ち、鉛筆とカメラで描いた作品は魅力的なものとなるであろう。

この旅は約2年かかる予定。OUTING誌は、レンツ氏がいくつかのステージを終えた時の話を聞くとともに、多くの国を旅した孤独な自転車旅行者の冒険と体験を、細かくイラスト化された描写で読者に紹介する。

彼のルートは、アメリカ、日本、中国、インド、アフガニスタン、ロシア、ペルシャ、トルコ、パレスチナ、トルコ、セルビア、ブルガリア、ハンガリー、オーストリア、ドイツ、スイス、オランダ、ベルギー、フランス、イギリス、スコットランド、アイルランドを旅する。

註、この合本版には2か所に広告が載っている。


OUTINGの広告
以下同じ



2024年7月15日月曜日

レンツとアウティング誌 - 2

 レンツとアウティング誌 - 2

アウティング誌 VOL. 20、1892年5月

VOL. XX. APRIL- SEPTEMBER, 1892 

以下は「ビクター」の広告

「ビクター」とオーバーマン ホイール カンパニーの勝利

ペンシルバニア州ピッツバーグのフランク G. レンツ氏は、「ビクター」空気入りタイヤ自転車とカメラを携え、1892年5月15日から世界一周自転車旅行に出発する。

「ビクター」空気入りタイヤの安全性は、私たちが何よりも望んでいる重要なテストにかけられようとしている。世界一周旅行に出発するレンツ氏にとって、空気入りタイヤの耐久性は、どのタイヤがこの厳しいテストに耐えるのに最も適しているかという難しい問題に直面した。

彼はすべてのタイヤを調べ、さまざまな自転車に乗ったが、ほとんどのタイヤに重要な点で欠陥があることが分かった。 「ビクター」の常識が彼を魅了し、徹底的に調べた結果、彼の主張は証明され、いまや世界は彼が選んだ車輪として確信している。ここに「ビクター」がその真価を発揮し、これまで主張してきたすべてのことを正当化するチャンスである。

レンツ氏は、空気入りタイヤでも世界中を走れることを証明するため、この自転車で世界旅行することを決意したのである。


「ビクター」の広告

2024年7月14日日曜日

レンツとアウティング誌

レンツとアウティング誌

アウティング誌 VOL. 20、1892 年 8 月

自転車とカメラで世界一周

フランク・G・レンツ著

自転車と私は、一連の休暇ツアーでピッツバーグまで行ける範囲のすべてのルートに精通した。あらゆる条件下でアレガニー山脈に登り、東はニューヨーク、西はシカゴ、南はニューオーリンズまで旅行した。私はカメラや身の回り品を運ぶための道具をたくさん工夫し、「自転車」にすっかり慣れ親しんで、荷車のように荷物を積んで自転車に乗るのが自然になった。それでも私はアレクサンダー大王のように、新しい分野に挑戦することを切望していた。次の休暇には別な自転車に乗ろうとも考えていた。それは空気入りタイヤを装着した自転車で、これを使って試したところ、世界中を旅行できるだろうという自信が芽生えてきた。何年もの間『OUTING』誌を熱心に読んでいた私は、自分の経験を通じて仲間の自転車乗りに伝えたいと思うようになった。

『OUTING』という有名な「ブランド」が書かれた手紙を受け取ったときの喜びは、私の念願である「ウェストワード・ホー」へ、そして地球一周への計画が空想から現実へと一変した。

どのような車輪の自転車に乗るべきかという問題は、専門の技術者に聞くのもよいが、実際に試乗して解決されるはずである。

空気入りタイヤの自転車メーカーはたくさんある中で、結局それは私の個人的な経験と判断に頼ることになった。・・・


アウティング誌

2024年7月13日土曜日

銀輪部隊関連 - 7

 銀輪部隊関連 - 7

「マレー血戰 カメラ戰記」朝日新聞特派員 影山匡勇 昭和18年1月18日發行

我が猛進撃を怖れて、敵は道路の舗装を穿って、一面に地雷を埋めてゐた。我が工兵隊の決死的作業により、取り除かれた地雷の穴。


写真20
国会図書館所蔵資料

写真20
取り除かれた地雷の穴

2024年7月12日金曜日

フランク・レンツ関連

 フランク・レンツ関連

これもレンツ関連の写真。

この写真のキャプションには次のようにある。

レンツは自転車の前に立っており、仲間の西洋人は人力車に乗って正体不明の建物の前にいる。おそらく1893年春に中国で撮影されたものと思われる。

Lenz stands with his bicycle while a fellow westerner sits in a rickshaw in front of an unidentified building, probably taken in China in spring 1893.(Adventure Cycling Associationより)

註、まったくこの説明書きは的外れである。どうみて日本人の目からから見ればまさしく日本の風景で、大店か街道筋の宿屋と云ったか感じである。

レンツは愛車のビクター号のやや右側に立っており、その横は人力車に乗る旦那の奥方であろうか。人力車夫の半纏の襟に何か文字が見えるが不鮮明で判読できない。

よく見ると軒の上にやはり半纏を着た人物がいる。

「おそらく1893年春に中国で撮影」とあるがこれは誤りで、1892年の秋に撮影されたはずである。場所はどこであろうか、東海道沿いの宿場町なのかいまのところ判然としない。


レンツのビクター号と人力車

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