2024年7月20日土曜日

レンツとアウティング誌 - 7

  レンツとアウティング誌 - 7

「OUTING」 スポーツ、旅行、レクリエーションのイラスト入り月刊誌

第 23 巻 1893年10月 - 1894年3月

OUTING AN ILLUSTRATED MONTHLY MAGAZINE OF SPORT, TRAVEL AND RECREATION. VOL. XXIII. OCTOBER, 1893—MARCH, 1894. 

52頁、

有名な雪に覆われた富士山が横浜の背後の丘の上にそびえ立ち、港にはイギリス、オランダ、アメリカの軍艦や商船、変わった帆をつけた日本の古いジャンク、あらゆる種類のタグボートや和船がいっぱいだった。しばらくは大騒ぎであったが、その後、船室の乗客は互いに別れを告げ、小グループに分かれてホテルのタグボートで上陸した。

中国行きの三等船室の中国人は、船が港に停泊している日中は上陸を許可されなかった。彼らのうち3人は太平洋を渡る途中で亡くなり、防腐処置を施して自宅に運ばれる。蒸気船会社は、死因が伝染病でない場合は、常に遺体を中国に運ぶことに同意している。

オセアニック号での快適な航海を楽しんだが、19日半の航海を終えて上陸できたことに皆喜んでいた。自転車とカメラを担いで、横浜グランドホテルのタグボートに乗り込んだ。埠頭に着くと、そこらじゅうに日本人がいた。裸の体にマントを羽織り、雪駄を履いて、親指と人差し指の間をリボンで留めている人もいた。背中に目立つ文字が書かれた半纏を着ている人もいた。ほとんど全員が小柄だった。女性の中には小柄だがとても美しい人もいた。人力車に乗っている人もいれば、下駄や雪駄を履いて歩いている人もいて、その下駄はガラガラと音を立てていた。

税関に着くと、係員が自転車とカメラの操作を要求した。通り過ぎるだけだと説明しても納得がいかなかったので、私はアメリカ領事を探した。彼は、私のような品物にはすべて5パーセントの関税がかかると教えてくれた。しかし、税関職員は自転車とカメラのみを課税し、5.60ドルの関税を課したが、この状況下では文句を言う理由はなかった。もし私が横浜経由で日本を出国していたら、この金額は返金されていただろう。その後、私は人力車をいたるところで見かけながら、バンドと呼ばれる大通りを自転車でホテルまで走った。車夫は平地で何時間も6マイルの歩幅で走り続ける。中には裸足の者もいた。午後、オセアニック号の同乗者5人が人力車を雇い、私は彼らと一緒に自転車で横浜郊外に向かった。市内の日本的な地域の狭い通りには、歩道はない。あらゆる階層の旅行者が行き交い、天秤棒で大量の商品を肩に担いだ男たちや、大八車、そして背中に赤ん坊をおんぶした大勢の子供たち。一、二度、赤ん坊が気持ちよさそうに眠っているのを見た。郊外に着くと、人力車道は起伏に富んでいたが、いつも見事な石畳が施されていた。車夫には、起伏のある区間を走るのを手伝ってくれる押し手も付いていた。しかし、苦労が多いに違いない。男たちは汗だくだった。坂を下りたり、彼らには容易ではない急な坂を楽々と登ったりする自転車の私を、うらやましそうに見ていた。私たちは道端の茶屋に立ち寄り、飲み物を飲み、女性たちの優雅な踊りを楽しんだ。美しい日本の女性たちが茶屋に迎え入れてくれたときに、私たちに気持ちよくお辞儀をして微笑んでくれたのを見るのはとても魅力的だった。アメリカではチップをやらないでカフェの店員から礼儀正しい挨拶を受けるとラッキーだと思うが、それとは大違いだ。


52頁

「オセアニック号の同乗者5人が人力車を雇い、私は彼らと一緒に自転車で横浜郊外に向かった。」(p. 52.)

「他の人たちは雪駄を履いて歩いていた。」(p. 52.)


「私たちは道端の茶屋に立ち寄った。」(p. 52.)