2020年9月23日水曜日

自輪車

 今日もまた三輪車である。
日本自転車史研究会の会報”自転車” 第20号 1985年3月15日発行で
「やはり幕末に自転車は来ていた!」で自輪車について述べた。
 『横浜開港見聞誌』6冊 橋本玉蘭斎誌 五雲亭貞秀画 1862年(文久2)~1865年(慶応元) 
の後編五に自輪車の画がある。
その時から気になっていたことはその駆動方法であった。どうみても前輪から伸びた綱状のひもを手繰りよせるようにして、前輪を駆動させる仕組みのようで、全く不可解な駆動方式であった。
その後、自転車技術史研究家の梶原利夫氏の指摘もあり、この三輪車は下のイラスト①が原画で、その絵を見て橋本玉蘭斎が描いたのではと言っていた。
このことは、日本自転車史研究会のニュースレター 第116号 (2001年8月27日)の
「自輪車の原画?」でも触た。(以下がニュースレーのその部分)
歴史関係の洋書を見ていると、江戸時代(慶応年間)の自輪車(じりんしゃ)に良く似た乗り物が 多く出てくる。これらは、細部は異なるが構造的に近いものがある。特に、「キング・オブ・ザ・ロード」(King of the Road 1975 by Andrew Ritchie) の146ページに載っているイラストは、まさに自輪車そのものである。このイラストのキャプションには、次のように書いてある。ピレンタム(パイレンタム)又は婦人用加速機:このアクセレータは貴婦人の大邸宅のグランドを周遊するにはよいけれども、彼女の上品な腕の力で、普通の道路を長距離走るのには向いていない。だが、このマシンは初期の時代かなりの期間利用されたマシンの一台である。
横浜開港見聞誌(横浜文庫、1865年)を著した、橋本玉蘭斉はこの原画をもとに描いたのか? 或いは、本当に横浜で実物を見たのか?いまのところまだ断定できない。

下図①のイラストは「キング・オブ・ザ・ロード」(King of the Road 1975 by Andrew Ritchie) の146頁にあり、再度よく見ると確かに似ている。
このイラストを注意深く見ると駆動方法もなんとなく理解できる。
手と足の両方で駆動する仕組みで、前輪駆動式であり前輪はステアリングも兼ねている。足と手の部分から伸びたワイヤー状の線がクランクシャフトに接続され、足の方は2枚ある長い板を上下に踏み込み、それと連動するように手で引くことにより前輪が回転する。このように手と足を使った駆動方式であればこのイラストの女性でも走らせることができたはずである。
橋本玉蘭斎は恐らく実物をみたのではなく。文献に載っていたこのイラストを見て、自輪車を描いたはずである。
横浜の居留地で実物を見て描いたのであれば、もう少し細部にわたって描いたはずで、その構造も分かるように描いたに違いない。単に組紐を引っ張る形にはならなかったはずである。それにこの三輪車は1819年から1820年に利用されていたようで、橋本玉蘭斎の描いた年代からは40年以上も時代が遡ってしまう。
結論的に言えば、橋本玉蘭斎は実物を見たのではなく、そのころに横浜に来ていた文献からそれを描き、自輪車としたのである。そうなると慶応年間にはまだ日本に三輪車は入っていないことになり、ラントーン車(1869年1月)まで待たなければならないことになる。しかし開港後の横浜に三輪車を含めた自転車が全く入っていないということにはならず、別な自転車が入っていた可能性も否定できない。
ただ言えることは、この橋本玉蘭斎の画にあるような三輪車は横浜に無かったということである。
他の三輪車が載っている書籍も多数見ているが、いまのところこの自輪車のような三輪車は現れていない。

「キング・オブ・ザ・ロード」
King of the Road 1975 by Andrew Ritchie の146頁

②反対側のイラスト

③日本自転車史研究会の会報”自転車” 第20号
1985年3月15日発行
私が2枚をつなげた画

④原書の自輪車
『横浜開港見聞誌』6冊 橋本玉蘭斎誌 五雲亭貞秀画
 1862年(文久2)~1865年(慶応元) 
のうち後編五にある画
国会図書館所蔵

⑤自輪車の解説部分
国会図書館所蔵