シンガー三輪車と言えば、宮武外骨と鈴木三元を思い出す。このことは既に何回も触れている。そこでまた宮武外骨である。
宮武外骨(みやたけ がいこつ、1867年-1955年)、讃岐国阿野郡小野村(現在の香川県綾歌郡綾川町小野)に庄屋宮武家の四男として生まれる。幼名は亀四郎。
以下は宮武外骨自叙伝より
予は、香川県綾歌郡羽床村大字小野(元小野村)の出身である。この土地は、もと高松藩松平家の領地で、維新の頃の藩主は松平頼聦と云ひ、元伯爵松平頼寿の父であつた。その頃の小野村は阿野郡であつたが、のちに鵜足郡と合して綾歌郡となつた。綾は阿野(あや)から、歌は鵜足からとつたのである。小野村は隣村羽床下村と合村して羽床村となり大字小野として残ることゝなつた。
予の家は、この古い小野村の時代から代々庄屋即ち名主であつて、まづ近郷に知られた大地主であつた。祖父才助の時代までは、大凡三百石位の小作が挙がつたらしいが、父吉太郎の代には、それが五百石位になつていたとのことである。
父吉太郎は、初め助之進と称したが、藩主に助の字のつく兄弟があるからとて、改名を申し付けられて吉太郎とした。母は佐野姓、名はマサノ、阿波讃岐の国境鵜足郡勝浦村(現綾歌郡美合村)の旧家の出であつた。予はその間の四男として生れ、幼名を亀四郎といった。長姉はいしの、長兄喩、次兄南海、次々兄為徳、妹花子の七人兄弟である。(以上、一部抜粋)
明治14年に上京、進文学舎橘香塾で学んだ後、「観智協会雑誌」を創刊するが、第28号で帝国憲法のパロディーである頓智研法12条と、玉座にガイコツの絵を描いて発行禁止、身柄を拘束される。3年で出獄、明治34年には大阪で「滑稽新聞」を発行。最盛期には8万部を突破した。ここでも外骨は役人の不正、権力の腐敗などを訴えつづけた。その後も浮世絵研究誌「此花」や「スコブル」「面白半分」などの雑誌を発行していく。入獄は4回、罪金、発禁などの筆禍は29回に及んだ。雑誌以外にも私刑、売春などの裏面史の研究著書も数多く、大正13年には東京帝国大学法学部に招かれ、「明治新聞雑誌文車」の創設に貢献した。
外骨と自転車との係わりあいについては、「滑稽新聞」(第48号、明治36年5月5日)に次のようにある。
俗社会の毀誉は時勢によって変遷する事多し、昔の阿房が今はリコウとなり、今のリコウが後世阿房と目される事になる。滑稽記者村夫子(宮武外骨の「滑相新間」時代のペンネーム小野村夫)が去る明治14年、15才の春、東京に出たる折、或日一人の西洋人が自転車に乗って万世橋の北よりお茶ノ水に至る阪を造作もなく上りしを見て、予はこども心に自転車を欲しくなり、それより後は日夜思い絶えず、後3年を経て母親より三百円の金を貰い、是非にも先年見たる自転車なるものを買わんとて、東京横浜は云うに及ばず、大阪をも探りたれども、自転車の売物は一台も無きのみか、自転車に乗りたる人をも見ず、殆ど途方に暮れたりしが、尚念のためとて神戸に至り、彼方此方を駆回りたれども、是亦同じく売物なし、尋ねあぐみの果、布引の竜でも見て帰らんとて同所に至りし折、附添たる車夫に此事を物語りたるに、其車夫の云うには「サホド御熱望ならばいささか心当りあり拙者が御世話致さん今夕まで御待あれ」とて予の宿所をただして立去りしが、其午後果して吉報を伝え来れり、そは神戸居留地のダラム商会(後破産して英国に帰りしと聞く)に一台の自転車あり、御望みならば銀貨二百ドルにて譲渡さんとの事なりし、予の喜び天にも登る心持して早速同商会へ出掛け、談判の末百七十ドル(其頃の相場にて日本貨百九十二円)にて買い取りたり、其自転車は現今の如きものにはあらず、ゴム輪なれども古式の三輪車にて大なる一輪は直径五尺余あり瓦斯灯二個附の大物なりし、予は早速、郷国讃岐の高松に至りて数月間其自転車にて飛び廻りしに見る人々は珍らしがりて噂さ市内に伝わりしも、予の親族の一統は眉をひそめて予の母親を攻撃し、彼に自転車の如き馬鹿気たるものを買わせしは何故なるや、彼も亦日本一の馬鹿者なりなど日々非難の声を高むるのみなりし、或日予は此自転車に乗って阪出港に遊び、同所の従兄鎌田勝太郎(現今貴族院議員)方に至りしに勝太郎も亦予の自転車を見て馬鹿臭しと罵り、平常にも似ず一碗の茶も出されざるの汚辱を受けたり。然るに近年は何処とも自転車大流行にて山間にもベルの音を聞くに至り、予は帰郷する毎に比旧事を追想して笑止の感絶えざるなり、その往年予を馬鹿者と誹りし親族共がいづれも今は自転車を買入れて揚々自得たるの一事なり。時勢のために馬鹿がリコウになりしと云えば云うべきも、予は馬鹿者と目されざる今日にてはモハヤ自転車に乗って稱人の間を駆廻りたき心は毫も存する所なく、反って今は自転車を見れば、馬鹿者との感想起りて、昔日予の親族が予に対するの非難と同一の趣きあるのみ、然れども世間並のリコウ者と日本只一人の馬鹿者との別あり、其心事の差は雲泥なりと知るべし。(以上、滑稽新聞より)
ところで、自転車の歴史などやる人間は、はたして外骨先生が云う世間並の馬鹿者なのであろうか。願わくば、日本一の大馬鹿者になりたいものである。これからもどうでもよいことを穿り返し、無駄な時間を過ごしたいと思う。世の中は殆どどうでもよいことで動いている気がする。人間は小さなことでも右往左往し、時にはどうでもよいことで口論となりすべて自分が正しいと騒ぎまわる。
庭にいる泰然自若のアマガエルを見ていると特にそう思う昨今である。