2020年9月28日月曜日

銀輪のわだち その1

 1983年4月15日から季刊「サイクルビジネス」(自転車専門店の経営情報誌、ブリヂストン株式会社発行)に連載した「知られざる銀輪のわだち」を何回かに分けて掲載する。

この原稿は私が書いて当時担当であった高橋 達氏が編集したものである。(今回の掲載にあたり一部修正加筆した部分あり)

ブリヂストンサイクルが一昨年ごろから雑誌への企業広告に、自転車の歴史物語をつぎつぎと取上げている。これは私にとってちょっと嬉しい。私は勤めをする余暇に、日本の自転車史の研究を趣味としている。二年半ほど前からは同好の人たちと『日本自転車史研究会』を発足させ、昨年一月からはささやかながら隔月刊で機関誌を発行するようになった。とはいうものの、私と自転車とのつき合いはそんなに古いものではない。小学校のころ乗って遊んではいたが、それはだれにでもあることで、本格的に自転車に関心を持ち出したのは、10年前に就職をしてからである。そのころ、雑誌や新聞でラーレーやモトコンフォート、プジョーなどの外国自転車の広告を見て、そのシンプルなシルエットに魅力を感じ通勤用に買い求めたのがはじまりで、これは変速機のないものだったが、すぐにロードレーサーを買い足した。自動車との接触事故もおこしたが、自転車への愛着は増すばかりで、つぎつぎと外国製の自転車を買い入れ、欧米の専門誌も集め、競技にも参加するなど、ついには職場でも,自転車狂い、にされてしまった。外国製の自転車でスタートした私の趣味は、あるとき「日本の自転車は、どんな生いたちをしてきたのだろう?」という疑問から方向が変った。俗に「わが国に自転車が入ってきて100余年」などといわれるが、その歴史的資料はきわめて少ないことがわかり、また研究する人も数少ないことがわかってきた。このため、手探りの日本自転車史の研究がはじまった。この雑誌の読者は自転車店主だそうであるから、連載を通じて関心のある方や資料をお持ちの方と接触できることを楽しみにしている。

初登場は、一年さかのぼる
ヨーロッパでも、自転事を発明したのはだれなのか、いまだに諸説が入り乱れていて本家争いが絶えない。しばらく前までは1790年にフランスのド・シブラック伯爵説が強かったが、その後はドイツのドライス男爵による1817年発明説が強くなっている。発明という画期的なできごとでさえこうだから、わが国への渡来となるとなおさらはっきりしない。自転車産業振興協会編の「自転車の一世紀」(昭和48年刊)はなかなかの労作であり、いちばんまとまった自転車通史だが、「いつだれが、日本に最初の自転車を持ちこんだものか、いまになってそれを知る手段はいたって乏しい」とし、「武江年表」や「明治事物起源」などを引用して三輪車、自在車というものが明治3年に登場したと記録されている事実、または佐藤アイザック(別書では伊藤アイザック)が自転車をアメリカから輸入したという記述の書籍を紹介するにとどめている。ともあれ、いくつかの書籍が「明治3年説」をとっているのは一応の根拠があると思われる。ただし、公文書に自転車という文字が記録されているのは、東京府の明治5年8月の諸税収納金の中に「自転車一輌」とあるものがいちばん古い。ただし、直接の公文書ではなく、近年に編さんされた『大阪府警察史』には、明治3年8月に「自転車、通行人ノ妨害少カラズニ付、途上運転ヲ禁ズ」という取締布令が出たとされている。これらについては前にあげた「自転車の一世紀」でも取上げられている。ところが、その後、大阪でみずから自転車店を経営し、自転車史研究家として知られている高橋 勇氏が、それよりも一年さかのぼる明治2年に東京で自転車が走っていた資料を発見した。それは明治2年の「ジャパンパンチ」という雑誌で「自転車を見て驚く江戸市民」という絵が掲載されている。「ジャパンパンチ」はイギリスの画家チャールス・ワーグマンが発行していたもので、彼は安政6年から横浜に定住しロンドンへニュースを送る特派員として活躍しているのだから、この絵は実際のスケッチであろう。少なくとも明治2年に自転車は東京の街上に姿をあらわしているのである。
江戸の開市 1869年1月1日 ジャパン・パンチ掲載の挿絵
 
自転車学校は明治31年
わからないことは、単にいつから登場したか、だけではない。技術や工業化の歴史についても、残されていて、日の目を見ている資料はあまりにも限られている。鉄道や自動車については同じ交通手段でありながらきわめて資料が整備されているが、自転車はあまりに身近な乗りものだけに、多くの歴史が埋没、あるいは風化してしまっている。このまま過ぎてはますますわからなくなっていくだろう。いまのうちならば、まだいくらかは残照があるはず という判断で、こういう研究をはじめてみた。昨年、日本経済新聞に執筆の機会が与えられ「知られざる銀輪のわだち」と題して、私たちの研究を書かせてもらったが、それ以後、少しずつではあるが全国各地から、断片的な資料が寄せられるようになってきた。明治時代の新聞広告や自転車店の年賀状、競走会の告知、売買契約等々である。ある人から見れば反故のような断片も、自転車史を知ろうとすれば「この競走会にはどんな自転車で、どんな人が参加したのだろうか?」「この自転車はどんな規模の工場でつくられていたのだろうか?」など興味がわいてくる。そして、そういう断片的な資料が積み重なってくると、少しずつ往時の自転車の世界が浮き上がってくるのである。たとえば、最近、福島県須賀川市の真船さんという方からのお便りで、明治31年11月に「遊輪倶楽部自転車練習場」というスクールがあり、50台くらいの自転車を備えていたと知らされた。これは「風俗画報」にその記事がある、というのである。前出の「自転車の一世紀」では、自転車学校は明治35年8月に登場したとされているが、それより4年も早くできていたのである。また、逓信省(いまの郵便局の前身)は明治25年から電報配達用に自転車を採用したとされているが、東京の須賀さんという方は、それが記録されている公文書、逓信省年報明治26年版に「電報配達二在テ、其快速ヲ計リ前年度末東京外三局二自転車ヲ使用セシメシニ効果ヲ収メ大ニ配達上利益ヲ得タリ」とある、と知らせてくれた。明治の自転車専門書も、古書市などを探してみるとかなりある。『自転車全書』や『自転車術』は有名だが、私が調べただけでも15~6冊あり、日本人が昔も今も知識や技術の吸収に熱心であったことがわかるのである。これから数回にわたって、わが国で自転車が育ってきた跡をたずねてみたいと思っている。(オ)