2020年9月6日日曜日

ダルマ自転車

 ダルマ自転車或は達磨型自転車の名称は何時ごろから言われるようになったのであろうか?
当時はダルマ自転車は単に自転車と呼ばれていた。自転車とは明治3年に商品名として使われ、それはラントーン型(Rantoone)の木製三輪車であった。竹内寅次郎が命名者である。この辺のことは(交通史研究第13号抜刷「日本における自転車の製造・販売の始め」齊藤俊彦、1985年4月25日発行)を参照されたい。

ダルマ自転車の呼称は、明治25年頃からではないかと思っている。
明治28年度の「逓信省年報」には、当時使用されていた自転車の種類が出ていて、そこには、安全形、達磨形、木製普通形とある。
思うに明治25年頃からアメリカやイギリスからセーフティー型が輸入されるようになり、それらと区別するために、達磨さんが転んだような形状から達磨型自転車と呼ばれるようになったと思われる。だからそれ以前は達磨型も単に自転車と呼ばれていた。
イギリスやアメリカでの名称は、オーディナリー、ペニー・ファージング、ハイ・ホイール・バイクなどと呼ばれている。
ダルマ自転車がまだ自転車と呼ばれたころの事例は、たくさんあるが、その中で一つを例に挙げると。(この情報と資料は以前、梶原氏から頂戴したもの)
星 一(星 新一の父親)が明治27年4月に自転車で東海道を旅行した時の話で、東京から達磨自転車に乗り小田原へと進み箱根の下りでその自転車が壊れ、結局、清水から先は自転車なしでの通常旅行となった話である。

「星とフォード」京谷大助著 厚生閣 大正13年6月25日発行に
彼はこの三百圓の中から、三圓五十銭で自転車を買ひ、二圓で古本一圓五十銭で古外套、二十五錢で麥稈帽子を買った。そして残りの二百九十幾圓かは一文も無駄にしないで銀行へ預金をした。三圓五十銭の自轉車は何にしたか。二圓の古本を何かしたか。米國へ行くからには、日本を見ずに出かけたのでは比較研究にならない。是非日本を見て行かねばならないし、左りとて米國行の旅費を使ふ譯には行かないので、古本を賣り乍ら、自轉車で日本を一周しようと考へたのであった。星が如何にその頃から用意周到であり、骨惜みをしなかったかが了解されやう。
三圓五十銭の自轉車は前輪の直径が四尺(1.21m)もあり、後輪の直径一尺(30㎝)位な二輪車で、今日から考へたら馬鹿々しい程不格好なもので・・・
出發の日には横濱の友人の所で泊まり、次の日には小田原の木賃宿で泊まった。箱根舊街道の難所は自轉車で越えた。自轉車で越えたと云へば體裁よく聞えるが、乘る事は勿論不可能な相談で、寧ろ箱根八里の中、上り四里は自轉車を引っ張り上げ、下り四里は引下したのであった。おまけにその自轉車は清水港の手前で破れて了った。斯ふなると便利と思った自轉車が、此上もない厄介物になり、背負って歩かねばならぬ事も多かった。澤山の古本を持ってゐる上に自轉車迄背負はねばならぬといふ事は實に並大抵の苦労ではなかった。そこで清水港に着くと早速東京へ送り返し、友人に頼んで買って貰った。

同じような内容が息子の星 新一著の「明治・父・アメリカ」新潮文庫 
にある。

自転車は木製で、前輪が直径一メートル二十センチ、後輪が三十センチというしろもの。鉄でできている外国製のをまねた国産品である。
和服にわらじ、キャハンをつけ、古外套を着る。大量の古本を風呂敷につつんでせおい、その自転車に乗る。九段下の下宿を出発する時、友人たちはの奇異な姿に目をみはった。四月の中旬のことである。最初の日は横浜の友人のところにとまる。翌朝は早く起き、自転車を走らせながら、学校や役場をまわって本を売り、小田原について一泊。ここまでは順調な出だしだった。いよいよ箱根越えとなる。旧街道であり、江戸時代とあまり変っていない。天下の険と呼ばれるように、道はけわしい。自転車は使いものにならない。古本とともに自転車を押してのぼった。通りがかりの外人が、えらいことをするやつだと驚いていた。苦痛もいいところだが、いまさら計画を変更する気にはならない。息もたえだえに小湧谷の三河屋という旅館に到着し、十五銭で一泊。温泉にひたって一休みした。下りもまた大変だった。道が悪くて、自転車は使いようがない。がたがたさせたためか、古物だったせいか、かんじんのその自転車がこわれてしまった。こうなると、やっかいなお荷物である。古本をせおい、自転車をかかえ、なんとか清水港までたどりつく。たちまち期待に反した状態になってしまった。自転車を船便で東京の友人に送った・・・

ここに登場する和製ダルマ自転車は、3円50銭という安い値段。因みに当時の安全型自転車の価格は、国産車で35円から75円(明治26年、自転車製造専門、大島卯之助の広告)、舶来車で125円~200円、宮田で25円~95円であった。(明治26年、大倉組銃砲店の広告)

いかにこのダルマ自転車は安価か分かる。車輪は鉄輪の付いた荷車のようなもの、これでは路面からの衝撃をまともに受け、乗り心地はひどいものであったに違いない、近場の平坦地を遊びで短時間に乗る以外、実用性に乏しい。この時代はさらに自転車が発展し、車輪は空気入りタイヤの安全型自転車に進化している。高価な安全車であればもっと楽しい自転車旅行ができたはずである。

この物語は達磨型自転車を旅行に利用した具体例で、一つの興味深い事例といってよい。

東小網町鎧橋通・吾妻亭
明治21年、探景画
早稲田大学図書館所蔵