2021年5月2日日曜日

多田健蔵の練習風景

 多田健蔵の練習風景

昨日の続き

座談会での多田健蔵の話である。一部、話は前後するが、日々の練習について拾い読みすると、

日々の練習について

(多田)、私らは朝早く鶴見を出て、今の花月園競技場のある付近に石川商会があったから、そこから朝食前に横浜にゆき、さらに原町田へ行き、原町田から鶴間、藤沢へ、それから横浜へ戻るコースで練習していた。

私は、朝食前に走り、帰って来て食事後昼まで仕事、昼からまた走った。
2回(毎日)は必ずやった。

かなりの道程だ。200粁はやったんじゃなかったかな。前に言った3人(平田、高梨、田辺)は東京から小田原へのコースを練習していた。
私は横浜から東京往復のコースも練習に使った。たとえば、8時に会社へ出るでしょ。するとチャンと会社で電報用紙が用意してあって、その用紙に8時半と書き入れて、多田これをもって行ってこいといわれるんだ。その時分時計なんかもってないからね。

明治40年の4月に始めて石川商会に行った。入ってから5月までトレーニングしたら一ぺんに足がはれてしまった。医者からは「お前は掛気でダメだ」といわれたので、小豆ばかり食べていたことがあったね。それからいくらかなおって5月のはじめ頃から練習を再開し、6月20日の200哩レースに出たんだ。

レースの当日、朝の3時頃まで雨が降っていた。その時分、横浜の家には南京虫がいてね、それと暑さでぜんぜんねむれないんだ。

その時のことで面白いことがあった。走りながら小便したくなったけど、降りてしてたら1哩位ちがってしまう。そこで乗りながらしようと思うけど、出来ないんだな、パンツがキッチリなってるからね。それでも何とかして、パンツを引張り引張り走りながらしたもんですよ。(笑い)


多田健蔵は、当時、石川商会のお抱え選手であった。仕事の傍らに毎日、200㎞ほど練習していたことが分かる。これでは、仕事の傍らではなく、毎日が練習の時間に充てられていたことになる。多田が優勝して名をあげれば、石川商会にとっても大いに宣伝効果があったのである。
日米商店が明治40年頃から販売を始めたラーヂ号の影響により米国製ピアス号等の販売にかげりが出てきた石川商会だが、多田の優勝によって売り上げを伸ばしたはずである。

石川商会の略歴、
創業者の石川賢治は、1859年(安政6)に山形県西村山郡河北町に生まれる。
明治14年に慶応義塾に入学し福沢精神を学ぶ。
明治19年、単身アメリカへ渡り、貿易実務を精力的に研鑽して帰国。
明治27年、石川商会を設立。横浜とカナダのトロント市に店舗を構える。
明治33年、米国とカナダから自転車や写真機などを輸入販売。自転車の主な銘柄はピアス、アイバンホー、スネルなど。その後、順調に会社は成長発展し、営業拠点も神戸など5店舗になる。
明治41年、石川賢治社主が病気となり、更に営業の不振が続いたため解散。
明治42年3月、石川商会の元社員らと山口佐助が事業を継承し、合資会社丸石商会を設立させる。

石川商会の店舗、
石川商会本店の住所は、明治33年に横浜市弁天通四丁目七十三番地にあったが、明治39年には業務拡張により横浜市尾上町六丁目八十九番地に移転する。
座談会の記事によると、横浜の鶴見にも支店か出張所があったようである。

明治39年頃の店舗
横浜市尾上町六丁目八十九番地

社屋も近代的な三階建てのビルに変わる
所在地は同じ横浜市尾上町六丁目
明治40年頃の写真